ボルシチではない

ロシア生まれのトイ・カメラ

「これはボルシチではない」などと文句を言いながらも、恋人と向かい合って食べればまあ、「おいしいね」なんて言って口に運んだりもする。それでも、日本で何故か市民権を得てしまっている、トマトスープとビーフシチューの中間物のような和製ボルシチはどうにかしてほしい。自己批判してください。
私が家庭をもったら、ビーツを買ってきてちゃんとしたボルシチを作りたい。くさいと言われようとも。ビーツは「飲む輸血」って言われてるんだよ、貧血にてきめんなんだよ。
私のなかで 結婚=まいにちご飯をつくる という式が確立していて、それは幸せであり、面倒でもある。
結婚、と思い浮かべたとき、兄の高校時代のお弁当箱が突然思い出された。剣道部だった兄の、やたらにデカイ弁当箱を母は「おかずを詰めても詰めても埋まらないのよ・・」と言っていた。母は、そのブラックホール弁当箱に加え、早弁用のおにぎり等を朝練に行く兄のために毎日4時起きで作っていた。
埋めても埋めても、毎日空になって戻ってくるお弁当箱の莫大な空白を、飽きもせず文句も言わず、毎日毎日埋めつづけること、それが、なぜだか結婚生活の象徴となって私の頭の中に浮かんでいる。